日本医学コミュニケーションセンターの先駆者 バロン教授インタビュー①「医学英語で日本における学術コミュニケーションの障壁を乗り越える」

日本医学コミュニケーションセンターの先駆者 バロン教授インタビュー①「医学英語で日本における学術コミュニケーションの障壁を乗り越える」

1960年代の終わりから、バロン教授は日本で医学研究者のコンサルタントをなさっています。日本の「活気があり、きわめて進んだ」肺がんの分野での若い頃の経験を振り返り、第二次大戦後の時代、東京医科大学において、英語をネイティヴとしない著者とともに、いかに苦労して彼らの研究を世界へ広めようといかに努力をしてきたか、教授は話してくださいました。

バロン教授は、the Journal of Gastroenterology、Breast Cancer、the Journal of Bronchology、Allergology International、the Journal of Cardiac Surgeryといった幅広いジャーナルでエディターや編集顧問をされています。 1975年、日本の医科大学に情報センターを作るというアイデアを初めて提案されました。それにより出てきたのが、医学情報センター、医学論文に対するセンター内サポート、日本国内から外国への情報のコミュニケーションといった革新的なアイデアです。

教授はスコットランドで生まれ、英文学(ペンシルバニア大学)で文学士をとり、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院において狂言史で博士課程の論文未修者(a PhD course ABD)となりました。1960年代の終わり、PhDの研究を進める前に、ICUにて4年間にわたる日本語研究を修了しました。1970年から始まり今も継続している東京医科大の第一外科とのかかわりは、日本医学界の他の領域へと次第に広がってきています。

バロン教授はアジア大西洋呼吸器学会では執行委員会の常議員であり、現在はCOPEで国際アドバイザリー・グループメンバーの日本代表を務めていらっしゃいます。東京医科大学国際医学コミュニケーションセンターでは教授兼センター長をなさってきました; 川崎市にある聖マリアンナ大学医学部の准教授(英語); ソウル大学ブンダン病院の指導教員;現在、東京医科大学名誉教授。 

近頃、教授はCouncil of Science Editors2014年大会で「アジアの研究者のための出版倫理における教育戦略」というセッションに出席しました。Acta Ecologica Sinica (国際ジャーナル)Ecosystem Health and Sustainability の編集長ジン・ドワン(Jing Duan)氏と、カクタス・コミュニケーションズ米国法人代表ドナルド・サミュラックも同席しました。

 

日本語を勉強され、大学院生として中世日本の狂言史について幅広く研究なさいました。どうやって医学の世界と結びついたのですか、まったく異なる分野ですよね?
 

非常に良い質問ですし、私も時々自分自身に問いかける問題です。ペンシルバニア大学を卒業したとき得た学位は英文学でした。というのも、英文学は選択科目数が最大だったためです。その頃は、将来何になりたいのか全くわかりませんでしたから。選択科目の中から何か面白いことが見つかることを期待していました。選択科目の一つに中国文学翻訳書がありました。私は医学での学位に興味がありましたが、医学部に入るため同級生の何人かがしていたような多大な努力をしたいとは思いませんでした。そこで、東洋研究に関心を持つにいたったのです。将来何が起こるか現実的にはまったくわかりませんでしたが、大学院での研究として東洋研究をしようと決意しました。ペンシルバニア大学では、中国語のPhDをとる要件の一つが日本語を3年間勉強することだったのです。

私は15歳でスコットランドの家を飛び出して、姉の手助けも借り、翌日にはアメリカに到着していましたから、経済的には完全に自立していました。ペンシルバニア大学はハーバード大学とともに、当時アメリカで一番費用のかかる大学だったため、いくらか借金したり経済的援助を得たりしたとしても、私にはほとんどお金がありませんでした。卒業する前の年の1968年、もし日本へ行ったら昼間は日本語を勉強し、夜は英語を教え、自活できるだけでなく授業料も払うことができるという話を耳にしました。そこで、1年間日本で徹底的に日本語を勉強すれば、アメリカで3年間かけて勉強するのと同じになるのではないか、と考えました。私はまず日本語という要件を片付けようと決め、そこで卒業後の1969年から、日本語の集中コース一年間を申し込みました。

 

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オールドアビー(Old Abbey)、15世紀の修道院廃墟に立つバロン博士。アイルランド、ドネガル・タウンの自宅の前で。

 

自活するため、いろいろなアルバイトをしました。その初めの仕事の一つが、日本語を学んだICUで会った一人の外科医に(英語を)教えることでした。その人がハヤタ・ヨシヒロ教授だったのです。彼は、当時、肺がん治療で最も有名な外科医の一人でした。日本にやってきてまだ間もなかったですが(すぐに)、私は東京医科大でハヤタ教授に(最終的には教授のスタッフにも)英語を教えるアルバイトをしていました。これが、いかにジャーナルとやり取りし編集するかを学ぶきっかけとなり、私自身が日本語の研究をするときにも大いに役立ったのです。一年間かけて日本語集中コースと現代日本語コースで学んだ後、日本語上級コースと、非常に興味をひきつけられた日本語史の勉強を続けました。そうですね、若干矛盾したコース選択をしていました。古典的な日本語を習いながら、現代医学の文章を編集していたのですから。

 

医学部にコミュニケーションセンターを、というアイデアをはじめて提案されたのは教授です。何がきっかけで思いつかれたのですか?

 

1970年ハヤタ教授に教えるためTMUにはじめて来た時、肺がん診断・治療において日本で有数の病院の一つとは知りませんでした。大学院での研究生活の最後の数年、アルバイトの一つとして、ペンシルバニア大医学部図書館でジャーナルを分類する仕事をしたことがありました。医学にも関心がありましたので (先ほど言ったとおり、医学部に入るために必要な努力は十分でなかったのですが)、目次などをパラパラめくって、何かおもしろい論文はないかと探していました。言っておきたいのは、北アメリカ、イギリス以外の研究あるいは科学的調査はほとんど見られず、私もあまり重視しなかったということです。ところが、日本にやって来て、医学的診断・治療・研究が活気にあふれ、非常に高いレベルであることがわかりました。

日本で学んでいるとき難しかったことの一つが、日本人は自分の業績について多くを語らないということです。肺がんに関して自分たちが国内のリーダーであり、この分野での世界のほとんどの施設と同じレベルにある、と言う人はTMUにはいませんでした。1969年日本で開発・生産された初の気管支鏡の一つを1970年に見たとき、私は、どの病院にもこうした機器が置かれているとばかり思っていました。これがまさに最先端のテクノロジーであること、曲げやすい気管支ファイバースコープがある病院は北アメリカのどこにもないことを、知りませんでした。後でわかったことですが、それから8年間のうちに、肺がんの診断・治療用の気管支ファイバースコープで使うレーザーを長期借入するため、私はアメリカのレーザー製造会社と交渉していました。

7、8年の間知らなかったことはもう一つあります。1965年までにすでにハヤタ教授は肺葉移植(lung lobar transplantations)を行っていました: 世界でも3,4番目のことだったと思います。当時、免疫抑制剤はなく、そのため両肺が拒絶反応を示すことから、免疫抑制剤が使えるようにならなければ移植を続けるのは倫理的でないと、ハヤタ教授は判断されました。しかし、この話は、日本がいかに進んでいたか、そして日本人が英語で執筆するのに大変な苦労をしていたために、西洋の人がどれほど日本の業績を知らずにいたかを示しています。第二次世界大戦末まで、英語は敵性語とされ、英語を教えることは禁止されていました。そのため、ハヤタ教授は学生時代に英語を教えてもらえませんでした。私は、患者の利益になるはずの大量の資料と情報があることを知っていました。患者が後々恩恵にあずかれるように、コミュニケーションの障壁を乗り越える手伝いで私ができることをやらなければならない、と感じたのです。

Dr. Patrick J. Barron, Dr. Yoshihiro Hayata, lung surgeon, first living lung transplantation

バロン博士と故早田義博 東京医科大教授

 


初めての編集は悲惨といってもいい経験に終わりました。早田教授と彼の同僚たちが書いた、肺移植における細胞レベルでの拒絶反応に関する論文を編集するよう頼まれました; この分野についてほとんど何も知らなかったのにもかかわらず、著者とともに、古いオリベッティ社のポータブルタイプライター(もしタイプ中に間違えて打つと、全部のページをタイプし直さなければならないような代物です)を使って、できるだけわかりやすくなるようベストを尽くしました。大変骨の折れる仕事でした。アメリカのジャーナルに論文を送ってから6ヶ月たっても、なお返事が届きませんでした。そういう場合もどうしていいのかわからなかったので、私はジャーナルに手紙を書き論文がどうなっているかたずねてみました。返事にはこう書いてありました「どの論文ですか?あなた方から届いている論文はないのですが」。つまり、もう一つ原著論文を書き、ジャーナルにもう一度送らなければならないということでした。そうしたところ、即座に返事が来まして、英語がひどいので、実際に役立つ英語の知識がある人に修正してもらうべきである、概してまったく英語ができない人が書いたような感じを与えている、と書かれていました。



ご想像通り、論文を編集したのは自分であり、責任も負っていましたので、私は非常に恥ずかしく思いました。いろいろ考えた後、論文のコピーをもう一つ編集長に送り、コメントをいただいたことに感謝しつつも、もし指摘された通り英語に問題があったとしたらアメリカの英語教育に深刻な問題があるということではないかと述べた手紙を添付しました。なぜなら、私はアメリカの一流大学の英文学科を卒業しており、語彙、文法、句読法にミスがないことは保証できたからです。しかしながら、どんなミスがあったか編集長が親切に指摘してくれれば、学びの機会を得られ、ありがたいものです。私たちは返事をもらえなかったのですが、論文は非常に早く掲載してもらえました。


さらにこのことから私は、査読者が戦争を体験し、ドイツや日本などの著者に対しネガティヴな感情を持っている場合、おそらく英語圏で育っておらず訓練も受けていないと名前から見てとれるような著者が書いて、外国から投稿された論文が、不利な立場に置かれるという事実を知らされました。そこで私は、1975年(だったと思いますが)、TMUの研究者全員の手助けをし、世界に情報を伝えるのを手伝うセンターという、すばらしく、かつユニークなアイデアを思いついたのです。早田教授にこのことを伝えたところ、教授の返事は「予算がありませんよ」という簡単なものでした。私には、センターの設立のメリットは経済的なコストによるデメリットを上回ると思えましたが、TMUで実際に日本発の国際医学コミュニケーションセンターが設立されるまでには、さらに17年という歳月がかかったのです。




バロン教授へのインタビューの第2部 では日本での「医学を目的とした英語教育」についてお話いただきました。ぜひご覧ください。記事はこちらから。

 

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