未知への恐怖が不可能を可能に

未知への恐怖が不可能を可能に

ビッグデータによる情報爆発時代がやって来る前から、私は、ビッグデータをどのように管理すべきかをよく考えていました(その時点では、それがビッグデータと呼ばれるようになるとは思っていませんでしたが)。テクノロジーの利用が盛んになってきていた2002年頃、私は指紋認証や音声認識などの技術がどのように機能しているのかということに魅了されるようになりました。そういうものに出会ったときは、必ず覗き込んで、自分の知識とそれらのシステムを使って何ができるだろうと思いを巡らせていたものです。そのような行動は、周囲の人たちに奇異に映っていたことでしょう。


2005年に大学に進学した私は、データサイエンスへの理解を深めるための授業を受けようと考えました。物理学(および自然科学全般)への情熱がデータサイエンスの理解に役立つと思ったので、物理学を専攻することにしました。当時は、神の意思に別の意図がある(得てしてそういうものなのですが)とは思いもよらず、自分の選択が修正され、物事が明確になるとは考えていませんでした。そして、どういうわけか後にコンピューターサイエンス学部に所属することになり、クラスメートたちとともに、その学部の一期生となったのでした。当初はこの流れに戸惑いましたが、後になって、それは自分が望んだことなのだと確信するようになりました。


当時准教授だったその学部の講師(以下、D教授)は、データの多義性に私と同じく多大な関心を持っており、データは生活の送電線だとよく語っていました。私はD教授の勧めで、彼が受け持っていたモデリング・シミュレーション、オペレーションズ・リサーチ、データ理論のコースを受講することにしました。D教授は、「万能」な素晴らしい研究者でした(少なくとも私はそう思っています)。D教授の講義は、私には退屈で抽象的なものでしたが、だからといってそれが、彼のような絶対的かつ貴重な存在から離れる理由にはなりませんでした。むしろ、D教授との距離をさらに縮めようと思いました。しかし、距離を縮めすぎたあまり、私は彼の息子のような存在になってしまいました。


時は飛び、2015年末、母国ナイジェリアのナショナル・オープン・ユニバーシティで情報技術(IT)の修士課程に在籍中だった私は、学術界で何か変わったことをやってやろうと目論んでいました。「テクノロジーによって変貌をとげ」、周りから抜きん出た存在になりたいと思っていたのです。これは、ナイジェリアのような発展途上国では珍しい目標です。そのため、修士論文を書いている時期は、自分の専門知識を披露し、自分を最大限にアピールするための最高の機会となりました。ほかのみんなが、ウェブサイト作りや既存のテクノロジーツールの分析など、ITの世界ではお馴染みのことに取り組む中で、私は別のことをしていました。もっと面白いことがしたかったのです!“oyibos”(「白人」を指すナイジェリア語)が巨大データという概念を理解し、ビッグデータを駆使することに成功した方法を知り、探求したかったのです。私は、そのような偉業に心底驚き、その答えを見つけるのに夢中になっていました。


そこで、学部卒業後に離れ離れになっていたD教授に連絡を取ることにしました。20082015年頃のナイジェリアでは、ソーシャルメディアはあまり使われていませんでしたが、その間も、D教授とはEメールや電話でつながりを保っていたのです。


D教授に、「確実に注目を集められる修士論文を書くためには、何をすべきか?」と尋ねると、すぐに「ビッグデータだ」という答えが返ってきました。「本当ですか?」と聞くと、「ビッグデータとアナリティクス以外に、私や君を満足させるものはない」という答えが返ってきました。私はその言葉に武者震いしました。そして、研究を成し遂げ、「ビッグデータ研究者」を自称する未来の自分の姿を想像すると、笑みがこぼれました。


私は、何を書くべきか、どこから始めるべきか、そして人々がなぜ「ビッグデータ」に関心を寄せるのかを考え始めました。当時は、怖気づいたり、D教授にむやみに不安を吐露したりすることがよくありました。しかし、テレビゲームで無茶苦茶にボタンを連打する初心者のようにパニックに陥る私を見ても、D教授は平然としていました。彼は可能な限り寄り添って手ほどきをしてくれ、私がくじけそうになったときは、メンタル面のサポートもしてくれました。何の見返りも求めることなく、支えてくれたのです。


データへの限りない理解が求められる探求の旅に乗り出そうとしているというのに、私は、体調を崩してしまうことが何度かありました。しかし、驚くことに、プロジェクトに取り掛かるとすぐに元気を取り戻していました。まるで、現場での成果が治療薬になっているかのようでした。その経験は、私がビッグデータを研究対象に選ばなければならなかったこと、さもないと、一生ビッグデータに憑りつかれていただろうということを明確にしてくれました。


D教授は、多忙にも関わらず、ビッグデータの概念を説くための時間をことあるごとに作ってくれ、その度に、この研究テーマが私に最適である理由を挙げて励ましてくれました。私の目標を達成するためには、そしてナイジェリアでデータの重要性とユーザビリティに関する新たな研究領域を創出するためには、あらゆることを――オンラインコースを受講する、ホワイトペーパーを読む、セミナーに出席する、マイクロソフトやグーグルのウェビナーを視聴する、IBMやハーバード大学のソーシャルメディア・アカウントをフォローする――「とにかく何でもやる」ことで一歩先に進むことができると、アドバイスしてくれたことを覚えています。


ある時、D教授から、「ペンローズの階段」という理論について聞く機会がありました。D教授は、社会の中でその理論が、ビッグデータによる予測の利用の回避とどのように関係しているかについて説明してくれました。この理論は、コンピューターアルゴリズムにおけるラウンドロビン方式に似ています。つまり、成長しているという自己欺瞞的な認識とともに、実体が架空の空間を行ったり来たりするのです。よくよく考えた結果、これらの理論は、学術的議論に寄り添う仮説的言説であるだけなく、私の個人的状況においても教訓となるものであることに気づきました。これらの理論は、私の決意や技術や意欲を高めると同時にバランスを保ち、偽りの進歩というとらえどころのない悪循環に陥らないようにしてくれました。私は、D教授の考えを理解できず、そのほとんどを笑い飛ばしたり嘆いたりしていましたが、それらを排除したことは一度もありませんでした。


大量のデータフレームワークや書物を共に調べたり読んだりする中で、私たちは、いつしか研究仲間になっていました。D教授は、2人の新たなルーティンを歓迎していました。なぜなら、対象への理解が深まるだけでなく、予定されていた就任記念講演:”Decismatics: Advancing A Kernel Discipline For The Decision Science Universe(決定論:決定科学分野のための中核領域を発展させる)のための有用な資料になったからです。この講演は、100%明快な決定を下すために、生データの処理に数学モデルを活用することに注目したものです。


私たちは、彼の研究室に夜中まで残って(午前2時を回ることもありました)、ビッグデータに関する発見や議論をすることもありました。家に帰れない時間になると、D教授が、安全のために、そして翌日すぐに研究と議論を再開できるようにと、近くのホテルを手配してくれました。


私がいつも、「人と同じことはやりたくない」、「人よりも確実に目立つことのできる何かをやりたい」と思っていたことは確かです。しかし、これほどおぼろげで、要求レベルが高く、時間を消費するものに取り組むことになるとは想像していませんでした。でも、この研究をやらなかったとしても、子どもの頃から抱いていたデータへの愛情や、データをどのように管理すべきかという好奇心を振り払うことはできなかっただろうと思います。


現在の私は、データアーカイブ、システム開発、コンテンツ管理を手掛けるスタートアップ企業の企業家/共同創設者として活動しています。これまでに経験してきたすべてのことに感謝していますが、とくに、ビッグデータの理解を目指す中で、恐怖心に打ちのめされることなく、立ち向かって乗り越えるために支援してくれたD教授には、感謝してもしきれません。私は今日まで、人生における大きなハンデを乗り越えながら、母国ナイジェリアで、ビッグデータとアナリティクスに関する初の探索的研究を順調に進めてくることができました。人生では時に、自分がもっとも恐れていることを認識し、それを乗り越える術を学ぶことこそが、不可能を可能にするために必要なことなのだ――今の私は、そう実感しています。

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