メンタリングが、かけがえのない経験に
最近、ある求人に応募して面接を受け、自分のキャリアや仕事人生についてじっくり考える機会がありました。その中で、メンタリング(指導)についても考えることになりました。これまで、正式なものかどうかは別として、Thesis Mentoring(学位論文メンタリング)、v i s t a、キャリアメンタリング、GROW mentoringのスキームなど、受ける側としても提供する側としても、さまざまなメンタリングを経験してきました。結果的に、メンタリングのおかげで好きな仕事に就き、やりたいことをやれている今の私があると思っています。では、メンタリングは具体的にどのように役立ったのでしょうか。
キャリアを通じて出会ったメンター(指導者)たちのことは、はっきりと覚えています。そのほとんどは正式なメンターではなく、本人たちにも私を指導するという意識はなかったはずです。その人たちに共通していたのは、思考や行動の引き金になるような素晴らしい問いを投げかけてくれ、その行動を通して学びと刺激を与えてくれたことです。たとえば、「その仕事に採用されるには、どんな履歴書を書けばいいと思う?」という問いかけは、履歴書を書くときに非常に役に立ちました。ウェンディ・バークレイ(Wendy Barclay)教授のリーダーシップや活動を間近で見ることができた私は、幸運だったと思います。
このように、メンターは完全にポジティブな存在だと思ってしまいがちですが、「こうはなりたくない」と教えてくれたメンターたちもいました。そのような人たちが「メンター」と言えるかどうかには議論の余地がありますが、その点については専門家の意見も必要なので、別の機会に譲りましょう。とは言え、これはこれで貴重な経験だったのです。
また、メンターとしての立場からも、多くを学ぶことができました。学びの機会は、メンティー(被指導者)が想定外の方法で問題を解決したときや、考え方を変えたときに訪れます。たとえば、学位論文を執筆中だったある学生は、自信を喪失して身動きがとれなくなっていましたが、あるミーティングを通して新たな発想を得て、再び歩み出すことができました。その勢いを維持するために、その後もミーティングを繰り返しましたが、すべての作業はそのメンティー自身が行なっていました。本人は今では、自分とは違う立場の人と共に「声を出して考える」ことを通して、物事の別の側面を見られるようになりました。
私がメンターになった動機は、より多くの経験を積むことでしたが、当時はその意味を本当には理解していませんでした。しかし、時が過ぎ、メンタートレーニングや1対1での仕事の経験を経て、今ではメンターでいることの価値を理解できるようになっています。これまで、心や体の健康、良い/悪い指導教官、異なる慣習や文化、多様な動機などについて、さまざまな問題を抱えた大学院生のメンタリングを行なってきました。
メンターは、メンタリングのさまざまな側面について、学位論文メンタリングプログラム、プログラムリーダーとの1対1のガイダンス、1時間のランチタイムワークショップなどのサポートを受けます。正式なトレーニングに「即効性」はありませんが、実際の現場でのメンタリング経験と組み合わさったときに効果を発揮します。新米の頃とごく最近になってから、同じメンターワークショップのセッションを2度受けたのですが、それぞれのセッションで、まったく違う学びがありました。
私の新しい役割(応募先に採用されました!)には、基幹部門の管理が含まれています。これまでこのような仕事をしたことはありませんが、メンタリングを通じて得られた経験があるので、自分にはできると確信しています。応募書類や面接では、メンタリング経験の具体例を挙げ、チームの健全な運営に責任を持って同僚のモチベーションを高められる存在として自分はふさわしいということをアピールできました。私は、自分が望む経験を得ることができました。今後もその経験を得続けるために、メンタリングを続けたいと考えています。
マイケル・トリキッチ(Dr. Michael Trikic、@MichaelTrikic)博士は、学際的工学教育部門で、学位論文メンターとテクニカルチームリーダーを務めています(工学分野におけるマイケルの教育的役割についてはこちらをご覧ください)。この記事は、2017年11月29日にThink Ahead Blogで公開されたコンテンツを、許可を得てここに再掲載したものです。
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