選挙でも争点になるなど、社会的にも注目されている外国人問題。SNSなどではネガティブな意見も多く投稿されていますが、その根底にある問題は「信頼」であるというような意見が散見されます。では、人や社会が何かを「信頼する」とはどういうことなのか。連載・研究者の思考さくご第24回では「信頼する」ということについて、国立情報学研究所の宇野毅明(うの・たけあき)先生に多分野の研究者の議論から出てきた視点をご紹介いただきます。
政治家や資本家、上級国民、公務員や教師、はては若者や年寄りまで、特定の層に対するネガティブな意見は昔からたくさんありますが、最近は外国人に関してもネガティブな意見をSNSやソーシャルメディアに投稿する人が増えているように思います。政治や教育に対してと同じように、昔からこういう動きはあったのですが、特に最近は選挙の争点になるほど注目度が高まっているようです。
投稿の中身を見るとネガティブな理由として「犯罪」を挙げる人がまあまあたくさんいます。「外国人は犯罪を起こすから」と。実際にどの程度なのか、外国人の居住者数と犯罪検挙数から割り出すと、だいたい300人に1人が毎年検挙されているようです。これがどれくらいなのか、日本人についても同様に計算すると、だいたい600人に1人です。ただし、外国人は働きに来ているので老人や子供など犯罪をあまり起こさない人が相対的に少ないこと、外国人の検挙には観光客も含まれていることを考えると、実際は2倍も違わないのだろうなと思います。確かに日本人平均より大きいのですが、だからといって「外国人を日本から追い出せ!」と叫ぶほどの根拠にはなっていないでしょう。ただ、犯罪の中身については良くわからないので、外国人という立場を利用した犯罪が多くあるのであれば話は別です。
「日本人の仕事を奪われている」という意見も聞きます。たしかに外国人は日本で多く働いていますが、たとえば技能研修でやってきている多くの方は低賃金で、日本人が積極的に就かない仕事に就いています。「日本人がそういう仕事に就けないから、他の職種に日本人が集中してしまい、仕事がなくなってしまうのだ」という考え方もできないことはないのですが、ちょっと無理筋と思います。そもそも全国的に人手不足で、技能研修などでわざわざ外国人を招待しているのですから、「仕事が奪われる」という意見も妥当ではないでしょう。
「外国人がそもそも嫌い」と言う人もいるかもしれません。どういう理由かわかりませんが、日本には思想の自由があるので、誰を嫌いになろうが好きになろうが自由ですし、その思想は尊重されなければなりません。しかし、それを大勢の人に向かって主張するのはヘイトスピーチになるでしょうし、外国人に限らず多くの人々の心を傷つけます。やらないほうがいいでしょう。とはいえ、皆さんそんなに外国人が嫌いでしょうか? 少なくとも外国の映画をたくさん見ていますし、外国のスポーツにも熱狂しています。テレビには外国人のタレントもたくさん出ています。個人として外国人の仲良しがいる人も散見されます。「外国人だから嫌い」という人は少ないのではないでしょうか。
あと、「外国人は信頼できない」、「何を考えているかわからない」という意見もあります。確かに、自分の周りに信頼できない人がたくさんいたら、いやですよね、それは納得できます。でも、なぜ外国人だけが信頼できないのかはよくわかりません。「知らない人だから」、「会ったこともない人だから」が理由なのであれば、同様に日本人も信頼できないはずです。なぜ外国人だけ信頼できないのでしょうか。同様のことは、政治家とか、金持ちとか、そういう人々に対する「信頼できない」「嫌い」にも当てはまります。個人的な政治家や金持ちの知り合いに関しては別に悪い気持ちはないし、信頼しているのだけれども、総じてそれらの人々を嫌い、信頼できない、と言う。なんとなく、イメージの中のそれらの人々を非難しているようにも見えます。ここら辺の「信頼できない」に関しては、ちょっとモヤモヤが残りそうです。同じように知らない人でもなんで信頼できるできないが変わるのか、このあたりの信頼のことを少し深掘りしないと見えてこなさそうです。

ということで、今回は「信頼する」ということについて考えたいと思います。外国人とは少し違う対象になりますが、しばらく前にうちのラボで「AIの信頼」を人文学的な視点から議論したことがあります。技術の精度や確からしさではなく、それを「社会がどう受容するか」という視点で、どのような信頼性があるのか、あるいは不足しているのかを議論しました。外国人もAIと同じく、日本の人々にとっては今ひとつ良くわからないもので、いろんなネガティブな意見が出てます。AIに関してこのラボの議論で面白い視点がいくつか出てきてて、それが政治家や外国人に対する信頼にもあてはまりそうですので、ご紹介しようと思います。
信頼と不安
議論に入る前にひとつ。「社会がAIを信頼している」の逆の状態は、「信頼できない」ではなく、たぶん、「AIに不安を感じている」だと思われるのです。人々のAIに対する否定的な意見における感情表現は「心配」や「不安」であることが多く、その心配や不安を説明するときに「信頼できない」という言葉が使われているので、そう考えています。であれば、信頼している状態は「不安や心配が解消されている状態」とも考えられます。一人の人間と一人の人間の話であれば、「信頼できる」の逆は「信頼できない」になると思いますが、AIが人間に対してとても大きくて、対等な関係ではないのでしょうね。同じことは政治家や外国人にも言えるかと思います。「外国人が信頼できる」の逆は「外国人がいると不安」。外国人というものが、一人一人の人間ではなく、想像上のなんか大きいもの、AIと同じように漠然とした大きなものに感じられているのかもしれません。
信頼① 経験から来る信頼
信頼の1つ目は、「ある程度長い時間が経ち、慣れ親しんでいるから信頼できる」という信頼です。皆さん、自動車はある程度安全なものと信頼していますが、実際は年間3,000人が自動車事故で亡くなっています。これが他のものなら絶対に禁止されるようなものなのに、人々は「必要だから」、「便利だから」といった理由で「大丈夫だと思うことができる」のです。実際にはそんなに信頼できないけれども、ずっと自分の周りにあって経験しているから「信頼できてしまっている」という理屈です。この視点からは、AIのような最新技術も、時間が経てば多少危険なものであっても慣れてしまって信頼されてしまうのでは、と考えられます。政治家に対する否定的な感情や、外国人に対する信頼や不安も、政治家や外国人の仲良しができれば、今ほどではなくなるのかもしれません。一方で、ヨーロッパの状況を見るかぎり、多く交わっていれば信頼される、という簡単なものではないようにも思えますので、ここは難しいところだなと思います。
信頼② 考え方に対する信頼
自動運転の車に乗っていると思ってください。そして、その車に、「現在どれくらい危険な状況にあるか」というメーターのようなものがついているとします。このとき、もし走っている道の歩道に、よろよろした老人が歩いているのが見えたとしたら、私たちは「危ない」と思うはずです。ところが、自動運転の車が、「たとえ老人が転んだとしても十分回避できる」と判断して危険度メーターを0にしていたら、私たちは「この車は危険な状況を危険だと認識しない」と感じて、この自動運転車が信頼できなくなるでしょう。逆に、自動運転車が、自分と同じように危険な状況を認識していたら、信頼すると思います。つまり、同じような考え方、同じような価値基準を持っている人は信頼されやすい、と言う考え方です。この視点から考えると、日本に長く住んでいるなど、そもそも日本の考え方に染まっている人や、アニメや漫画が大好きで日本文化に染まっている人などは信頼されやすそうですし、日本に来ても自身の文化や考え方をそのまま守っている人は信頼されにくいということになるのかと思います。政治家でも、庶民的な目線を持ってて、そういう話をちょくちょくする人は好感度があがりますよね。実際にどういう政策するかとはまったく関係ないはずなのですが。

信頼③ 社会の考えが同じである信頼
日本の家庭には、だいたいどこでも包丁があります。包丁は簡単に人を殺すことができるのですが、人々が包丁の危険性をちゃんと認識しているので、「包丁のある社会が危険」だとは思われていないでしょう。しかし、もし包丁のリスクを同じように考えていない人がいたら、たとえば「包丁は金庫にしまって限られた免許を持つ人だけが触れるようにすべきだ」と言う人や、「包丁は人前でぶんぶん振り回したり放り投げたりしてもいい」と思っている人など、いろいろな人がいたらどうでしょうか。たぶん、包丁の危険性に対して大変な議論が起きると思います。その結果、包丁の危険性よりも、その周辺の他の事柄、包丁を使う人、包丁を作る人などのほうに着目がいき、包丁自体の危険性を考えるときよりも、より大きくてわかりにくい物を相手にして考えたり議論したりしている社会になりそうです。誹謗中傷したり排除したりする人も現れるかもしれず、けっこうな大変な社会だなあと思います。リスクに対する考え方が大きく違う人が社会の中で混ざり合っているだけで、人々はそのこと自体から大きな不安を感じるのではないか、という見立てです。
こういうことは、コロナ禍でのワクチンやトイレットペーパー買い占めの時に起きていたと思います。ワクチンやコロナに対しては、「本当に危険だ」と思う人から「科学的な根拠がないから危険があるわけがない」と過度に信頼する人まで様々な人がいて、その結果、両者の間でひどい論争も起きていました。少なくとも「社会がワクチンの性能や危険性をありのままに信頼する」という状況にはなっていなかったと思います。トイレットペーパーの買い占めについても、他の人がデマのことをどう考えているかわからないという状況が、「社会が買い占めする人が出ない、ということを信頼できない」という状況を作り、買い占めを生んでいると思います。外国人についても、「外国人がいると国がむちゃくちゃになる」と思う人と、「外国人ウェルカム」な人がいて、異なるリスク感覚を持つ人たちがいるために、そういう論争があること自体が人々の不安を増加させ、社会として外国人を素直に信頼できなくなっているのかな、と考えることもできるかと思います。
最近はコロナも一段落して、それほど危険な状況ではなくなってきています。ワクチンも打っても打たなくてもいいのですが、それでもワクチンを打つことや打たないことに対して極度の不信感がある人もいますし、極端に信頼している人もいます。ワクチンの信頼性に対して、良い方も悪い方も確たる証拠があるわけではないので、これはワクチン自体の性能から来ているもの、というよりは、社会の動きによってもたらされていると考えた方が妥当でしょう。こういった社会の動きが、ワクチンの安全性の枠を越えて人々を分断させ、傷つけてしまうのは大変悲しいことです。外国人の問題に関しても、日本社会自体はさほど変わらず、日本人が持つ信頼のイメージが乱れているだけなのであり、そこから事実の程度を大きく越えた忌避感や排他性を持ってしまうのであれば、それは良くないことであろうと思います。





