「フィルターバブル(Filter Bubble)」は、SNSや検索エンジンがユーザーの過去の行動から好みを分析し、パーソナライズされた情報だけを表示することで、思想や好みが似た情報ばかりに囲まれる現象のこと。情報が「泡」のように固定化され、多様な視点が届かなくなるため、視野の狭窄や社会的分断の要因として懸念されていますが、本当にそうなのでしょうか? 連載・研究者の思考さくご第22回では「フィルターバブルは実はないかもしれない」というテーマで、国立情報学研究所の宇野毅明(うの・たけあき)先生に情報学研究者ならでの視点でフィルターバブルについて考察していただきました。
最近の報道を見ていると、選挙にしてもワクチンにしても、何かSNSで大きな動きがあるとすぐに「フィルターバブル」が原因としてあげられます。そういう見方もあるとは思うのですが、果たしてそれは本当なのか、正確に言うと「本当にフィルターバブルが主要因なのか」という疑問を筆者は持っています。フィルターバブルとは、推薦アルゴリズムや仲のいい人たちの環境要因によって、自分が同じ方向に偏った意見ばかり見せつけられてしまい、やがてその意見に染まってしまう、その意見や考えが極端に強化されてしまうというものです。しかし、今のネット環境や報道を見てみると、そのような偏った考え方とは異なるものがたくさん出ています。これを全く見ないようにして過ごすのは、よほど力を入れて情報の選別をしないかぎり無理でしょう。ニュースサイトのコメント欄などで陰謀論などの偏った考えを提示する人もいますが、その投稿を見る際には、その陰謀論とはまったく異なる意見も多数見ることになります。にもかかわらず、偏った意見だけ見せ続けられていると言っていいのでしょうか。

事実としてですが、以前、コロナ禍のSNSの分析をするために、「ワクチン」を含むツイート1億件程度の分析をうちの研究室で行ったことがあります。「ワクチン」を含むツイートを網羅的に集め、クラスタリングして似たツイートをグループ化し、主なツイートを分析しました。その中に、陰謀論を本気で唱えている人はほとんどなく、つまりクラスタリングの結果として出てこないくらいに陰謀論の数は少なく、実際には「陰謀論やデマに注意しましょう」という注意喚起のツイートばかりが見受けられました。このような状況で、「フィルターバブルが起こるから陰謀論者になる」という主張をするのは難しいと思います。
とはいえ、陰謀論やデマを信じる前には、それらの情報にたくさん触れているわけです。つまり、自分がわざわざデマ情報や陰謀論に触れ、その情報を深く集めて信じるに至っているのだろうと思うのです。自分から自主的に選び続けるのでなければ、世に広く出回る意見を排除しながら陰謀論やデマに触れ続けることは難しいはずです。ということは、何か偏った意見を見たら、いわゆる一般の情報は「なんとかして否定するためにあらを探す」「うそをついている」と言った視点で見てしまっているのではないでしょうか。つまり、情報が偏っているとか事実であるかとかそういうことではなく、「その情報をどんな姿勢で見るか」が重要だと思うのです。そのため、一度情報を信じなくなると、常に「ウソを言っているぞ」という気持ちで見てしまい、本当でもウソでもなんでもウソに聞こえてしまう。何かデマや陰謀論を信じてしまった人は、きっとこうなるのだろうなあと考えます。
では、なぜこうなってしまうのでしょうか。「陰謀論を信じ始める→それによって情報を信じなくなる」は起こりにくそうだと思えるので、逆向きではないでしょうか。つまり、先にメディアなり他の情報なりに疑念を持つようになるのが先ではないか思えるのです。陰謀論にソフトに誘導する入り口がある、強くセンセーショナルに陰謀論を唱える情報に触れる、など他にも要因はありえますが、ネット上の意見を観察していると、どちらかと言えば、「既存のメディアが信じられない」という意見のほうが圧倒的に多く見えるからです。

「メディアが信頼できない」というネットの声を見ていると、だいたい特徴は3つに分けられます。「本当とのことを言っていない」、「言ってないことがある」、「偏向している」の3つです(くだらないことばかりとか、既得権益側だとか、そういう意見は個人の価値観ですし、根拠不明つまりは感情に基づく悪口だと思うのでここでは除外します)。本当かどうかについては、正直、確認のしようがありません。事実だと伝えていることが実はこっそりウソかもしれないですし、究極的には肯定も否定もできないのです。ただし「言ってないことがある」、「偏向している」は、ある程度当たっていると思います。
まず、「言ってないことがある(伝えていない事実がある)」という主張ですが、メディアには多くの人に物事を伝えるという目的があり、そのためにはある程度情報を整理して、わかりやすくしなければなりません。すべてを説明しようとして、「こんな情報もある、あんな情報もある」とたくさんの情報を並べ、「ここを見ればこう言える、しかしここのところはこうも考えられる、しかしそれはこれがもし本当ならば間違いだと言うことになる」のように複雑な根拠付けとロジックを出し、多様な立場からの意見を出してしまっては、とても理解できるものにはならないでしょう。多様な立場の意見を出すにしても、賛成と反対のような簡単な対立軸に沿った解説くらいしかできないと思います。これ以上深く詳細に、多様な意見をひとつの記事なり番組の中で伝えるのはそもそも難しいのではないでしょうか。そのような多様な意見をそのまま出版・放送しても、読者や視聴者もこんがらがってしまうかと思います。
対して、ネット上の解説は、複雑で詳細な情報を、専門性や切り口を固定してシンプルに見える、考えられるようにして解説しているものが多くあります。それぞれでは全体を伝えることには遠く及ばないのですが、専門家の意見、それぞれの立場からの意見、ある情報なり根拠なりに基づく意見などを見るという点では実にわかりやすいです。著者は、近年情報の取得にネットが使われるのは、実はこの視点が固定されたわかりやすさがポイントなのではないかと考えています。ただし、このような解説では、多様な視点、中立な視点はなくなります。多様な視点、中立な視点を持つためには、多数の意見を見なければならず、これが視点の偏りを生んでいる可能性はあると思います。
そして、もうひとつ「偏向」の問題があると思います。事実を伝えるとき、その事実をどのように伝えるか、どのように意味づけするかで、読み手や聞き手には全く違う印象やメッセージが伝わります。同じ殺人事件でも、加害者を厳しく断罪することもできれば、加害者の不幸な境遇や生い立ちを紹介することもできます。伝える事実を恣意的に選べば、さらにその効果を増すことができるのです。中立の立場になるように心がければ良いのですが、多くの視聴を得るためには、感情により訴えやすい立場に寄ったほうが効果的です。ビジネス的に有利な方向に行かないようにするのはとても難しく、特に競争が激しければその傾向はより強くなるでしょう。最近のスポーツ選手の性暴力の疑いや、政治家のパワハラなど、根拠となるものが「他の週刊誌が伝えている」「告発があった」など、白か黒かをこれだけでは断言できないものを、「仮にこれが本当だとしたら」という留保を付けて一方向の立場のみで報道する姿勢が散見されています。これでは「偏向している」という意見が出るのも仕方がないことでしょうし、読み手や視聴者は「偏向しているからには、恣意性の入った情報発信をしているだろうから、100%信じることはできない」と考えるのは自然な流れだと考えます。
このような状況は、昔はなかったかと言えば、実は古くからあったと思います。特に政治に関しては、いい部分を解説するものはほとんどなく、ひたすら批判を繰り返す、これは偏向報道といえるでしょう。最近の選挙では、メディアでは政治家の実績や政策がほとんど紹介されず、スキャンダルの紹介ばかりだと言う批判も多くありますが、それは昔からで、スキャンダルも事件でも、異なる立場を同等に扱い意見を対立させることはなく、必ずどちらかに寄っていたと思います。つまり、偏向は昔から行われていたのです。ただ、SNSの登場で、その偏向の反対の立場の意見なり情報が見えるようになったということでしょう。SNSがない状態のほうが、立場が固定された情報しか入らず、これはまさに今言われている「フィルターバブル」そのものです。陰謀論やデマに危機感を持ち、フィルターバブルの危険性を喧伝した結果、メディア報道が作るフィルターバブルに人々が気がつき、ネットの情報をも参照するようになったというストーリーも考えられるでしょう。そう考えると、なんとも皮肉なものだなあと思います。

では、人々は陰謀論やデマに踊らされているのでしょうか。陰謀論やある意見に熱心に入れ込む人は盛んに活動するので、ネット上での露出も一般の人に比べると10倍も100倍も多くなると考えられます。でもそれでは上記のように、陰謀論の投稿が極端に少なかったことの説明ができません。つまり、陰謀論者やデマに踊らされている人は意外に少ないと思えるのです。ほとんどの人は、ネットやメディアから様々な情報を手に入れて、しかしどれかだけを一方的に信じることはせず、自身の周りの人々の意見も参考にしつつ、自分の意見なり考えを作っているのではないでしょうか。一般の人々は、研究者が単純に考えるよりよっぽど早く、情報の考え方、扱い方をアップデートしているのかもしれません。
「メディアはかくあるべき」とか「ネットのフェイクを禁止するべきだ」のようなことを言っても仕方がありません。世界はすでにこのようになっているのですから。それよりも、多くの人は様々な切り口や立場の情報を見て考え、それぞれの意見や価値観を作っている、あるいは近い将来にそのようになると考える方が、より本質的ではないでしょうか。現状の分析も、陰謀論がどれくらい流れているか、広まっているかと言った情報の広がりに着目するよりは、人々が何を見て何を考えるようになり、どのように信念を構築していっているのか、そちらに重点を置いて考え分析する方が良いかと思うのです。





