研究者の皆さんの中には「自分の研究の面白さをなかなかわかってもらえない」という悩みを持つ人も多いのではないでしょうか。面白いと思ってもらえない理由は何なのか、そもそも人はどのようなときに面白いと感じるのか、連載・研究者の思考さくご第21回では、国立情報学研究所の宇野毅明(うの・たけあき)先生に情報学研究者ならでの視点で、「自分の研究の面白さを伝えるには?」というテーマで考察していただきました。
ときどき研究者から、「自分の研究を面白く思ってもらえない」、「大事さがわかってもらえない」というような悩みを聞きます。特に学際的、あるいは分野融合的な分野では多いと思います。確かに、まったく新しいトピックや新しい研究方法、AIの導入など、今までのやり方と違うことを始めるときは、その中身をよく知らない人には「何が大事で何が面白いのかよくわからないだろうなあ」と思います。説明するほうも、自身の研究を一生懸命、ここが大事、ここが面白いと思うところを説明するのですが、残念ながら何も響かずということも。そもそも人間は一般的には、他人が面白いと思うことや趣味、大事にしたいと思っていることの、ほんの一部しか面白いと思えないものです。「他人が大事にしていることは大事にしましょう」というようなメタな倫理観はありますが、たとえば田舎の町の100年くらい続いているお祭りを、土地の人はものすごく大事にしていますが、よその人は「大事にしているんですね、なるほど」くらいで、心の底から大事に思って寄付したりボランティアしたりはしていないと思います。むしろ「面白さがわからないことのほうが普通」と思っておいたほうがいいかもしれません。たまたま同じ分野で興味を共有していれば面白さを分かってもらえるのだと思います。
他人に面白さをわかってもらえないときに、その理由としてよく出てくるものには、「分野が違う」、「興味が違う」、「中身が難しい」、「抽象的である」、「聞き手の役に立たない」などが挙げられます。しかし一方で、これらの条件を満たしているのに面白いと思ってもらえる研究や研究発表もあるわけですから、それだけではなく、他の要因や伝え方の問題もあるのだと思います。よくよく考えると、「面白い」にもいろいろな面白さがあります。興味がある、知りたい、楽しい、わくわくする、聞いてみたい、役に立ちそう、不思議に思う、共感する、ウケるなどなど。どの意味で面白いのかによって、研究のどの部分をどう面白がるかは異なります。それを上手に伝える、見せる方法も違うでしょう。今回は、このあたりをじっくり考えて、いくつかの「面白がり方の典型例」を考察してみたいと思います。

まず1つ目として「役に立ちそうだ」を考えてみます。「この研究成果は知っておくと将来いいことがありそうだ」、「自分の考えていることの資料になりそうだ」というような動機による面白さ、つまり聞く人の直接的な利得と結びついているものです。今だと、AIの話などがこれにあたるでしょうか。この場合、面白いというよりは「興味関心がある」と言ったほうが近いのかもしれません。そして、聞く人のその興味は話の先、展開される部分になります。この技術はこれに使えるか、どういう精度でどれくらい使いやすいか、どこで手に入るか、その知見はここに役に立つか、自分の知っているあれとどう関係するのか。こういった興味になりますし、質問が出てもこのようなものになります。こういう面白さに訴えたいときは、実例を出し、将来の発展、具体的な性能、実用上のコストや条件など研究の展開のほうの話をするのが良いでしょう。技術でなく知識や知見に関するものであれば、それが相手の常識や抱えている問題のどこに関わり、どうアップデートできるのか、そういうところを話すのが良いと思います。
次に、自分が思う面白さと異なる面白さを相手が感じる場合があります。たとえば、ブラックホールを研究している研究者を考えます。研究者は、自分は物理の数式をいじって、それが何かを導くところに面白さを感じているので、それを伝えようとしたとします。一方で、多くの人は、ブラックホールの不思議、なんで時間が遅くなったり止まったりするのか、という点に興味や関心があります。それでも研究者が数式の面白さを伝えようとするなら、たくさんの複雑で難解な物事を説明する必要があり、それでもやっとその面白さの入口にたどりつくだけです。これでは説明を聞いている人も難しいことを一生懸命考えさせられて、嫌になってしまうでしょう。興味がそもそも違うときに、自分の興味を押しつけてもなかなか相手には届きません。相手の面白さの中に自分の面白さをいかに潜り込ませるかということが大事になってくるでしょう。
また、「価値付けや意味付けによる面白さ」というものもあります。たとえば、ものすごく大きな素数を見つけた研究を例に挙げます。そのこと自体を話してもさほど面白がってもらえないと思うのですが、この素数を紙に書くとどれくらいになるとか、世界で何百人の人が挑戦してきたとか、スパコン使わないとできないとか、その規模を解説したり、なぜこんなことができるのか、そのトリックを説明したりするなど、研究成果という事実の隣にある事実を用いて、研究成果にいろいろな意味や価値を付けていくことができます。ある種のプロモーションによって研究成果を面白くみせる、という方法です。
他にも、メタな面白さではありますが、「研究者がその研究を面白がっているところを面白がってもらう」というものがあります。「熱心に説明する姿がいい」「研究者の興味に共感できた」のような感じです。人間、新しいものや事柄の面白さを理解することは非常に難しく、他人の面白がる様子を見習って面白さを理解していくのかと思っています。たとえば自分はよく知らないスポーツの観戦などはいい例です。最初は何が面白いのかまったくわからないのですが、そのスポーツが好きな人から、どこが面白いか、興奮するのか、ドキドキするのか、すごいと感嘆するのか、その人の感じることを解説してもらっているうちに、だんだんその面白さがわかってきます。研究でも同じように、その研究者が楽しんで、面白がっているその様子やその理由「ここがわかるとわくわくする」「ここのロジックの素晴らしさにぞくぞくする」というようなことを解説していくことで、だんだんと面白いものであることは伝わっていくのではないでしょうか。話をするほうは、「自分がなんでこの研究を始めたのか」「どこをどう不思議に、楽しく、面白く思っているのか」といった自分の内面や、「ここでうまく行くと思ってやったけど全然うまくいかなくてがっかりした」「実験しようとしたら機械を落としてしまって大損害だった」のような興味深い、愉快な逸話を話すなど、いろいろな工夫ができるかと思います。

さてここで、研究の面白さとはちょっと違うのですが、講演の場合を考えてみましょう。講演では、研究の成果や中身を話さないことも多く、自分の研究ではないこと、そもそも研究ではないことを話すことも多いかと思います。この場合のひとつの面白さは、登場人物がいて、ストーリーがあって、メッセージや謎、感情の動きがあるといった、ストーリーとしての面白さです。活劇やミステリーとしての面白さ、結論やオチがある面白さかと思います。映画のような普遍的な面白さですね。そうなると、講演する側としては、常に疑問があったり、感情的にワクワクしたり、どんでん返しがあったり、困難や疑問が発生してそれが解決するということの繰り返しになっていたり、ストーリーとしてどのように面白くするか、いくつもの伝えたい事実をいかに小さくて面白い個別のストーリーに落とし込むか、というところがコツになるのかと思います。
講演の場合のもうひとつの面白さは、新しい考え方や視点、ものの見方を受け取り、「なるほど」と思うことです。この連載もそういう面白さを軸に書いていますが、新しい研究の結果よりも、それを通じ見える、社会や身の回りの技術や自然などについて、新しい見方、新しい考え方を提供します。それによって、今までちょっとわかりにくくてモヤモヤしていたものやすっきりしたり、うまくつながっていなかった事柄が上手に説明できるようになったり、現在の状況をメタな視点から俯瞰したり、そういうことができるようになります。自分が講演を行うときはだいたいこの面白さを軸に内容を構成するのですが、そのときは研究の内容をどう説明するかではなく、講演を聴く人の中にある常識、知識、物語、問題意識などを考えて、それらに自分の話がどう働きかけられるかを考えて話します。

かく言う筆者も、この記事で何か「面白さ」を伝えようとしています。今まで当たり前に見てきたもの、何か新しいものを、いろいろな切り口で考え、そこから出てきたものの楽しさを1つ1つ説明しています。ですが、これも筆者自身が感じている面白さそのものではありません。いろいろな研究者と話をすると、実に様々な話が聞けて、そのたびに考えることがいろいろあって、その中ではっと気づいたり、ひらめいたり、話している人の後ろに広がる、説明されていることとは違う景色が見えたりすることもあります。その構造が頭の中で組み立てられたり、それらを仲間内で議論して、自分には見えなかったものをもらったりする嬉しさ、楽しさが源泉にあるのですが、それはこの記事の中では説明しようとしていませんし、このように説明しても伝わるものではないと思っています。もし、それを伝えようと思うのであれば、読者に追体験をしてもらえるように、自分の経験とそのときに感じたことを考えたことを順序良くならべて物語を作ったほうがいいのだと思います。
一方で、文学研究者の知人から「人はありふれたものにしか感動しない」という言葉を聞いたことがあります。物語を追体験して感情を共有するには、物語の状況からその感情なり考え方が、読み手の中に自然に湧き出る必要があります。ここでは感動という感情を例に出していますが、多くの人に自然に同じような感情が沸き起こるようにするには、ほとんどの人がある程度当たり前に知っていることを説明する必要があるのです。面白さもまた同じでしょう。多くの人に、面白さを追体験してもらうには、その面白さがある程度普遍的でないといけないのです。その意味で、筆者のうれしさ楽しさは、あまり普遍的ではないと思うのですが、一方で、自分の研究仲間と議論するときは、むしろこの自分の体験を多く語っています。自分がどういう気持ちだったか、なぜ議論が必要だと思ったのか、ひらめいたこと、大事だと思ったこと、誤解していたこと、様々な自分の心の中頭の中で起こったことを、自分の体験に乗せて、わかってもらえるまで話します。たぶん、この行為には目的があって、このようなことをしっかり語ることで、何のために何を目指して議論するのか、目的意識や価値軸をしっかりと共有するためにしているのだと思うのです。こういう面がしっかり共有できれば、「今あなたが面白いと言っていることは好奇心的な面白さではなく、実は”利得がありそう”という期待ではないんですか」のような、議論の本質や根底を固める働きのある意見が出てきたりして、それが議論の質を上げることになっています。
研究の面白さを考えるとき、それは自分にとっての面白さとともに、他者にとっての面白さを考える必要があり、そのためには多くの視点や価値軸で自分の研究を見て、俯瞰したり例えたり、抽象化したり、他の概念の上で考えたりとほんとにいろいろな思考活動をすることになります。思考力を鍛えるためにも研究力を鍛えるためにも、良い訓練になるだろうなと思っています。





