世界各国だけでなく日本でも「格差」が広がっているといわれており、その格差による強い不満が凶悪犯罪を生むのではないかという議論がなされています。であれば、研究者間で大きな格差のある学術コミュニティでも凶悪犯罪があるのかといえば、そうでもなさそうです。連載・研究者の思考さくご第19回では、国立情報学研究所の宇野毅明(うの・たけあき)先生に情報学研究者ならでの視点で、「研究業界の格差がなぜ強い不満を生まないのか」を考察していただきました。
近年、いや遙か昔からですが、「格差社会のせいで、無差別殺人が起きたり誹謗中傷がひどくなって、すさんだ社会になっている」という言説があります。格差があるから不満があり、無差別殺人など凶行にいたる人が出てくるのだ、というのがこの言説の基本的なロジックです。ところが、研究者の業界でも大変大きな格差があるのですが、研究者は無差別殺人や研究者業界に対する極端な攻撃などはあまりありません。人事や評価などのシステムや個人の性格などに対する文句は普通にあるのですが、格差自体に大きな不満を持ち、社会を攻撃したり理不尽な恨みを抱く人は少ないように思います。「研究者は暮らしに困ってないからだ」という意見は、職が得られず貧困の中で研究者を目指す人も多くいることから、説得力は低いかと思います。「研究者はそもそも賢いからだ」という意見もありますが、著者は「賢いから不満を持たない」、「賢いから凶行に及ばない」という見立てに対しては大きな抵抗がありますし、収入などの面で相関はあるかもしれないですが、理由としての根幹にはなり得ないと思っています。ということで、「研究業界の格差がなぜ強い不満を生まないのか」を考察していきたいと思います。

研究者は、たとえるならば「アスリート」のようなものかと思っています。基本的に自分の能力や業績で自分の評価が決まり、「組織のために何かをする」、「部下やプロジェクトを管理する」というような一般的な評価の要因は、研究者としての業績評価ではあまり考慮されません。研究者界隈のトッププレイヤーはテレビや雑誌にも登場しますし、学会や国から表彰もされます。大きなプロジェクトを運営し、何億円というファンドを獲得します。インスタグラムやXなどのSNSでも、キラキラが大変露出しています。しかも、苦労や失敗の話は情報発信されず、共有される情報はすごいものばかりです。一方で、業績の上がらない研究者は注目もされず、論文を書いて投稿しても、査読者から「これはつまらない」「意味がない」と否定されます。ファンドや業務の問題から、研究をすることすら思うようにできない人も多くいます。業績によって人事や採用が行われますので、一旦業績が上がらなくなると、そこから脱出するのは至難の業です。これ、昨今の格差の状況とだいたい同じですよね。このような状況は今に始まったことではなく、それはそれはひどい格差が昭和の昔から業界に蔓延していました。研究者の皆さんは、自分の人生やアイデンティティをかけて研究していますので、うまくいかなければ苦しく、他人がうまくやっていれば悔しく、妬みの心も大きくなろうというものです。研究のプレッシャーや挫折、抑圧が、自分のイデオロギーや尊厳に深く関わり、それを削られ傷つけられるものであることは間違いありません。でも、無差別殺人などの凶行におよぶことはほとんどないと思います。
理由1:研究は自分でやるもの(自分の責任)
理由として考え、実感していることはいくつかあります。そのひとつは、「研究は自分でやるもの」だからです。結局うまくいかなくても自分の責任であるということかと思います。同時に、自分でやることを選んでいる、つまり裁量権があるということもあるのではないでしょうか。その意味では、上から自身の研究テーマが押しつけられる、強制されている研究室では、大きな不満がときにあるかもしれません。しかし、この方法がうまくいく場合や分野も多いので、単純にどちらが悪いという話ではありません。自身の選択や自身のポリシー、努力に、成功・不成功の要因が大きくのしかかってきますので、社会に責任をなすりつけようがないのだと思います。

とはいえ、これはいい面ばかりではありません。悪いことの責任がすべて自分に向き、落ち込んだり、悩んだり、苦しんだり、その矛先はすべて自分の心に向いてしまうのです。ときに病んでしまうこともあると思います。これが技術の問題、例えば「証明ができない」、「実験の精度が悪い」、「調査や考察が不足している」など理由がわかるときは、ある程度あきらめもつきますし、何を頑張ればいいのかもわかります。しかし、なぜうまくいかないのか、その理由がわからないとき、自分に対する悪い評価の理由が見えにくいときはモヤモヤします。考えても考えてもわからないと、人は深く悩みます。特に人文学などの質的な研究や、研究の問い立ての重要性、価値観の話になると、このような悩みが多くなります。
研究がうまくいかない→自分の責任で辛い→辛いのが続くと、そのうちあきらめる。自分はがんばったけどうまくいかなかった、だから諦めた、という構図になります。それでも成功者がうらやましいことに変わりはありませんし、挫折感や、劣等感、悔しさや渇望感など、いろいろな感情が渦巻くこともあるでしょうが、それはあくまで自分の責任ということで理解し、他人への攻撃にはつながりにくいのかと思います。これは受験勉強の苦しさや挫折と似ています。
理由2:評価が合理的で透明性がある
研究業界は、比較的評価が合理的であり、透明であることも一因と思います。質的研究は特にそうですが、研究業界でも人の主観で評価が決まることは多々あります。しかし、その主観が多くの人々に共通していることがほとんどで、AよりもBが良いという評価が出たときに、それが絶対的におかしいと感じる人はあまりいません。これが、なんらかの利得のための恣意性で評価が決まったり、「お気に入りの人が出世する」といった非合理的なことであれば、社会に対する不満が大きくなると思います。また、評価軸が自分ではどうしようもないこと、たとえば「親が社長だと有利」などの場合もそうでしょう。自分が選んだ研究トピックが学会の中心的な価値軸に乗っておらず、不利になることはありますが、それは結局は自分の責任です。そして、だいたいの人は自分の研究対象を愛しているので、たとえそれが評価に不利でも、安直に研究対象や研究スタイルを変えたりはしないと思います。

理由3:逃げ道がある
また、研究がうまくいかないときに、逃げ道があることも大きいかと思います。大学に勤めていれば、研究がうまくいかなくても、自分の活動主体を教育や、大学の運営にシフトできます。それで内部的に評価されますし、自分の満足も得られると思います。むしろ、「教育の方が大事でやりがいがある」という研究者も多いのではないでしょうか。学生の成長を支えること自体が素晴らしい活動なので、むしろ最初からこちらに力を入れている人もいると思います。そもそも「逃げ道」と書きましたが、逃げるという言葉自体が価値の中心を研究に置いた話し方で、研究と同じくらい、それ以上に素晴らしい道が研究の隣にあり、自分の方向性を変えた、今は大事に思うことが変わったという捉え方で、周りからも「辛くて逃げた」とは見なされないはずです。家族のケアをしたり、支えるために仕事を減らしたり辞めたりする人が、仕事から逃げたと思われないのと同じだと思います。
以上を考えてみると、「格差があること=すさんだ社会」という図式は成り立たないと考えさせられます。「自分の力で自身の境遇をなんとかすることができるか」、「自分に選ぶ権利と多様な選択肢があるか」、「評価や仕組みが透明で普遍的か」、そして「他の選択肢が価値付けされ尊重されているのか」、こういった要因もすさんだ社会を作るかどうかに大きく関わっていると思いますし、もし現在がすさんだ社会なのであれば、それは格差がある以上に、実は上記の要因が大きく損なわれていることが原因なのかもしれません。「格差はまあまああるけど、みんなけっこう幸せだよ」という世界は実は作れるかもしれないのに、問題の原因を格差に強く落とし込むことで、格差による不幸を生み出している可能性もあるのではないでしょうか。格差を攻撃する、つまりは「痛いから痛み止めをください」的な処方箋を考えるのでは、問題を先送りしているだけでしょう。他の解決方法を考えることも必要かと思います。
余談ですが、今回のこの記事、「同型の構造を持つが状況が異なるものと比較することで、その要因を深掘りする」という思考方法を用いています。社会における格差のことを考えるときに、格差が大きく存在する他の状況を考え、それと社会の格差の状況を比較することで、何が要因でどのような構造で、どのようなメカニズムを持つのかをより明確に考えられるようにする、というものです。だからどうした、というほどではないのですが、こういった問題を考えるときに、少し具体的で根拠が欲しかったり、あるいは少し引いた目線で全体を俯瞰したいときなどに、いいヒントをくれるのではないかなと思います。





